Beginning of the end
−turning point−



紗耶香がうちに来るなんて予想外だった。

武道館からまだ一週間もたっていない、ある夜のこと。

仕事が終わって家に帰って、一息ついて。さぁこれからお風呂に入ろうかな、っていう絶妙のタイミング。

事前の連絡もそれらしいそぶりもまるでなかった、全くの不意打ち。



紗耶香がうちに来るなんて予想外だった。

例の――キスの後で逃げたような――告白と言えばそうなのかも知れない事件を起こして。

それでも、そのことは翌日、仕事で顔を合わせた瞬間に謝ったんだ。ごめん、何でもないから気にしないで、って。

何でもなくないことぐらい紗耶香にだってバレバレだったんだろうけど、とりあえずその場はそのまま済ませた。

とにかく気まずくなってる時間が惜しかったし、いい具合に仕事は目一杯だったし。

そうして、ごく自然に、大切なメンバーとしての紗耶香の卒業を見送って。それで本当に終わりだと、そう思っていた。



だから。なのに。なんで。



目の前に紗耶香がいる。雨の夜、玄関先に。こないだまでと同じ、目深に帽子を被って。

や、と軽く笑ってみせてから、ちょっと上がっていい?と首を傾げる。

上がっていい?も何も。こんな時間に突然やって来られて、それでも拒む理由のひとつも見つからない。

なのに、言うんだ。来るんだったら電話ぐらいしなよ、って動揺を隠すためのあたしの言葉に。

――だって、会ってくれないかも知れないと思ったんだもん。もしかしたら、さ。それか、疲れてるからパス、とか。――



目の前に紗耶香がいる。あたしの部屋で、ちょこんと座ってお茶を飲んでる。

黙ったままのあたしの顔色を伺ってる。

別に怒ってる訳じゃなくって。ただの、見当違いの、寂しさ。

あたしが、紗耶香に会いたくないかも知れないなんて。疲れてるからパス、なんて。

そんなこと絶対に言う筈がないって、紗耶香はもう忘れてしまったんだろうか。



「……圭ちゃん?」



確かめるように、その瞳を見つめた。

叱られるんじゃないかと不安に揺れる子供みたいな。それでも、悪いことなんかしてないって何処かで自信に満ちてる子供みたいな。

その眼差しで、ゆっくり思い出す。数え上げたらキリがない、人の気も知らない軽口。

紗耶香はそういう子だった。それをあたしが忘れてしまっていた。



「なんか話があって来たんでしょ?」

出来るだけ何でもないふうに言葉を紡ぐ。心の中はとても穏やかじゃないけど。

正直、紗耶香が何を考えて来たのか全然分からない。それはもう、家に来られること自体、突然だったので。

「うん。……えーと、あのさぁ」

言葉を探すように、瞳を伏せる。そんな紗耶香の表情に、今も無責任に心惹かれて。

けれども、言いよどんでいるその言葉を聞くために、あたしは全身で身構えた。

仕方がない。最後に気持ちを放り投げたのは自分。それで終わりにして、あたしはそれでよかったかも知れない。

でも、紗耶香は。言ってみれば、とばっちりに近い成り行きで、それなりに悩んだりした筈で。

今更だけれど、好きになってしまってごめん、と。思う。だから。

紗耶香には、あたしを傷つける権利がある。



「あのね。えっと。圭ちゃんは、市井のこと好きってゆーか、なんか……そうなんだよね?」

まっすぐな視線と共にあたしに向かう言葉。直撃。

「……そうだよ」

手の中のカップに視線を落として呟く。琥珀色の表面に、情けなく揺れるあたしが映っていた。






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