Station break
| 悲しいことなんか、なんにもなかった。 今日は一人での仕事だったけど、それが寂しいなんて言ってられないし。 別に、何か嫌なことがあった訳でもない。 なのに、帰り支度をしてる途中、ふいに涙が溢れて止まらなくなった。 「……んー?」 バッグの中にメイク道具やタオルを詰めてたら、いつのまにか視界がぼやけて。 あれ?って思ったときにはもう、ぽたり、と手元に雫が落ちて。 悲しいことなんか、なんにもなかった。 だから、なんで泣いてるのか自分で分からなかった。 止めようもなく、涙は熱いまま頬を伝って流れていく。 鼻が詰まって、小さく口で息をした。 困ったなぁ、とぼんやり思う。 今日はもう帰るだけだけど、早く仕度しないと、下でマネージャーが待ってるのに。 鏡を見たら目も鼻も赤くて、本格的に泣いてる顔になってる。 タオルを引っ張り出して顔を伏せた、そのとき。 コツコツ、とドアをノックする音が聞こえて。 「えーっと。中澤です」 思いがけない声に、ばっと顔を上げた。てっきり、マネージャーが戻って来たのかと思った。 裕ちゃんだ。……なんで? 「ごっちーん。後藤さん。……おれへんのかなぁ」 怪訝そうな雰囲気に、慌てて返事をした。「はい」と言ったつもりだったけど、突然だったので「ふぁい」って情けない声になる。 失礼します、という言葉に続いて、遠慮がちにドアが開いた。 「入っていい?」 部屋の中を見渡す視線があたしに止まって、うん、って頷く前に裕ちゃんの表情が驚きに変わる。 「どうしたんー?」 「……あー。あはは」 何て答えていいのか分からなくって、ただ笑ってみせる。裕ちゃんは後ろ手にドアを閉めて、足早に近づいてきた。 「なんや、久しぶりに会えたと思ったら、なんちゅう顔してん」 ぺしぺし、と柔らかく、手のひらが頭にふれる。 「どないしたん。誰かに意地悪されたか?なんかイヤなこと言われた?」 おかーさんが、子供をあやすみたいに。そんなふうに茶化そうとしてるのが、すごく裕ちゃんっぽいと思った。 自然と、頬が緩む。けど。 目が、ね。 あたしの顔を覗き込んでる、裕ちゃんの目が。本当に、めちゃくちゃ心配してるの。 それが、分かる。だから。 「……ふぇ……」 たちまち笑顔が保てなくなって、涙がまた溢れ出した。 原因なんて分からない。どうしようもない。止まらない。 裕ちゃんは呆れても困ってもいないで、すごく静かな眼差しであたしを見てる。 誰かの前で泣くのは、恥ずかしいんだけど、一人で泣くよりずっと安心する。 裕ちゃんがずっと頭を撫でてくれてるから、なおさら。 「ごっちん」 「ん、……っ」 喋ろうとすると喉が鳴って、上手く返事が出来ない。情けない状態のあたしを宥めるように、裕ちゃんの手が軽く肩を叩いた。 時間、平気なん?と聞かれて、頷くことで答える。 「そっか。じゃあ、ちょっと泣いて行き」 懐かしい、柔らかい声があたしを包み込んだ。 「なーんや、なぁ。隣のスタジオで後藤が撮影やってるよ、っちゅーから見に来てんけど」 抱き寄せられる手に任せて、思い切って身体を預けた。 「仕事、ちゃんと終わらせたんやなぁ。頑張ってるもんな。なー、ごっちん」 こんなふうに、裕ちゃんに抱きついたりするのって、初めてかもしれないな。 「なんやろ。心配やけど。でも、こうやって心配かけられるの、けっこう嫌と違うんやけどね。裕ちゃんは」 薄い、胸元。大人っぽい匂い。心臓の音。 「な。……ええよ。誰にも、言わへんから」 声が、ちょうどよく耳元に囁くみたいに聞こえるのも、初めて知った。 悲しいことなんか、たくさんある。 やっぱり寂しいし、ちょっと疲れてもいるし、些細なことで切なくなって、本当は投げ出したくて。 仕事をするのは、その上を行くぐらい今は幸福なんだけど。 それでも、嫌なことが全部打ち消される訳ではないから。 泣きたかったよ。 誰かに守られながら。 心地よく泣き止む頃に、携帯が鳴った。マネージャーから、催促の電話。 それにしっかり答えているあたしを見て、裕ちゃんが安心したように微笑む。 「もう帰れるなー?大丈夫やな」 あたしも、笑う。電話を切ってから、もう一度しっかり裕ちゃんに向き直って。 「えっと。どうもありがとうございました」 ぺこり、と頭を下げる。よしよし、って撫でられて、くふふふ、と声が零れた。 泣き過ぎて目が腫れてたけど、もう帰るだけだからいいや、と思って帽子を目深に被る。 バッグを手にして、裕ちゃんと一緒に控え室を出ようとした。その寸前。 「な、ごっちん」 呼び止められて、はい?って振り向いたら、……ほっぺにちゅー。 「えぇやん、これぐらいなぁ?裕ちゃん今からもう一仕事するんやから。じゃ、お疲れ!」 そんなことを言いながら、足早に立ち去ろうとした。 別に、イヤだなんて一言も言ってないのにな。 ちゅーされた頬に指でふれて、何故だか楽しくて笑った。 裕ちゃんが振り向いて、そんなあたしを不思議そうに見てる。そして。 「なんかあったら、電話しておいで。ね。えぇね!」 ぴしり、とこっちを指差して、すごく嬉しい言葉をくれた。 「うん!ありがとう!頑張ってね!またね!」 慌しくスタジオに向かう背中に、思いついただけ叫んで見送る。 しばらくは、泣かないで頑張れると思う。さっきの言葉があるから。 それでも泣きたくなったときは、また今日みたいに泣かせてもらえるかな。……そうすることに決めた。 そう思ってれば、きっともっと頑張れるから。 |