One step



コンサート・リハーサルの休憩時間。

換気をしていても、スタジオの中はヤバいぐらい暑い。みんなバテバテで、床にへたり込んでる。

あたしもかなり限界に近くて、仰向けに倒れるように身体を投げ出した。



「暑ちぃー……」

誰にともなく口にしたとき、視界の端で何かがキラリと光る。

「あーあ、よっすぃー大丈夫かー?」

いつのまにか、矢口さんがすぐそばにしゃがみ込んで、軽くこっちを覗き込んでいた。

手にしているスポーツドリンクのペットボトルの、半透明の光がゆらゆら揺れてる。

「もうダメです、えーと、水分補給しないと死んじゃいます」

冗談でそう言ったら、矢口さんは途端に笑顔になった。

「あ、じゃあコレ。ちょっと浴びてみる?いーよ、ホラ」

「うわ、ちょっ……」

ペットボトルを傾ける仕草をされて、慌てて手を翳して防ぐ。もちろん、あたしも笑いながら。

こう、矢口さんに見下ろされるっていうのも新鮮な感じだ。なんか、ちょっと甘えたくなるような。

もうちょっと眺めてようかと思ったけど。――よいしょ、と勢いをつけて起き上がる。

いつまでもバテてると、心配かけちゃうんじゃないかと思ったから。

「お、よっすぃー生き返った」

普段に近い目線の高さで、ふっと笑い合った。矢口さんといると、顔が緩んじゃってどうしようもない。

そんなあたしに、矢口さんが手を差し伸べる。

「ジュース買いに行こ?あっちに自販機あるから。こないだのプーさんのお礼に、矢口がおごってあげる」

「行きます!」

即答して、その手を握った。

矢口さんが立ち上がって、腕を引かれるのに合わせて(実際にはほとんど自主的にだけど)あたしも腰を上げる。

後ろで「よっすぃーズルイ!」って喚くチビたちを得意げな顔で一蹴して、スタジオを後にした。



「なんかさぁ、廊下の方が涼しいよねー」

……そうですね、と。あたしは生返事を返す。だって。

手。さっきからずっと、繋いだままなんだってば。

意識しなければ、別にどうってことなかったんだろうけど。気づいてしまったから、伝わってくる熱がなんだか落ち着かない。

それに。なんて言うか。どっちかっていうと、矢口さんの方が率先して歩いてく感じだから。

――ちっさい犬が、お散歩ー♪って急ぎ足になってるみたいだ……とか。

そんなふうに思っちゃってることも、やっぱり、言えない。

「ところでよっすぃー、リハーサルどう?どっか、分かんないとことか、ある?」

急に矢口さんが振り向いた。いきなり目が合って少し焦る。

「あ、や、えっと。特にないです」

「そっか。今んとこ大丈夫そう?」

「ハイ。なんとか」

なら良かった、と言って矢口さんは前に向き直ってしまった。ずいぶん短くなった金髪を、なんとなく見つめる。

少し目線を下げる位置にある、小さな頭。喋るのに合わせて、軽く揺れてる。

「大変だよね。矢口とかは立ち位置の変更ぐらいだけど、よっすぃーたちは振り付けから覚えなきゃなんないしさ」

「そう……ですね」

休憩直前にやっていた振りを思い出す。加入前の曲は、どうしてもあたしたち4人に時間を割かれることが多い。

「うちらも、教えながら思い出してく感じだから。分かんなかったら、すぐ聞いてね。ね!」

念を押すように、繋いだ手を一度振られて。それが、心の中の何かを揺らす。

――ちっさくて可愛くて、でもしっかりしてて、ちゃんとこっちのこと気に掛けててくれる教育係。

手のひらに伝わる熱が気になって仕方ない。もう、それだけじゃ物足りないと思う自分が。



自販機の前で、矢口さんがポケットから小銭入れを取り出して、そこで手が離れた。

当たり前の行動なのに、解かれた手が寂しい。

ジュースを買いに来た、という本来の目的は、あたしの中でかなり遠くに行ってしまったらしい。

「よっすぃー、何にするー?」

ちゃりん、と小銭を投入しながら矢口さんに尋ねられて。考えなきゃいけないのに、うわのそら。

黙っているあたしを、矢口さんが振り返った。

「ねぇ。どれ?」

「……矢口さん」

答えになってないってー!――頭の中で、もう一人の自分の声がする。けど。

熱を追い求めるように、矢口さんの肩に手を添えて。上体を軽く屈める。

惹かれるまま、頬に唇を押し当てた。



真っ白になってた頭の中が、少しずつ冷静さを取り戻す。

どうしよう。どんなリアクションとっていいのか分からないから、動けない。

でも、このままでいるのは心臓に良くないに違いない。っつーか、そんなに持たないってば。

意を決して、そっと唇を離した。

「……えぇ〜?」

矢口さんの不満そうな声に、そのままへたり込む。顔が上げられないーっ!

投入済みのコインが、ばらばらと音を立てて返却口に落ちて来た。

「あーあ」

矢口さんが、それを取り出してる気配。がちゃがちゃと耳元で音がして。それから、つん、と肩先を突かれた。

「おーい。よっすぃー?ちょっとぉ」

名前を呼ばれて、どうしようもない気持ちで顔を上げた。

「あはは、もう!なんてカオしてるんだキミは!」

弾けるように笑い出されて、もうどうにでもなれ、とよろよろ立ち上がる。自分がどれだけ情けない顔してるかなんて、考えたくもない。

「……そんな、笑わないでくださいよ」

他に言葉が見つからなくて、そう呟いた。だって、そう、そりゃあ突発的だったかもしれないけど。

「あ、分かってる、ゴメン」

矢口さんは、尚も笑いながらそう言う。自販機に寄り掛かるようにして、首を傾げて。

「でもさー、今のって……どうなの、って感じしない?」

そんなふうに問われて、真意が掴めなかった。

「矢口的にはねー、ちょっとダメかな、今の」



口元が、ひく、と引きつったのを感じた。

「……ダメ、でした?」

今にも掠れそうな声で尋ねる。矢口さんは、困ったような笑顔。

「え、だって、ダメっていうかさ、ほっぺなの?って感じ……って、あー、言っちゃったよー!」



……今日は、とことん思考が追いつかない。矢口さんの言葉に固まるばっかりで。

えぇっと。なんだ?てっきり、さっきのフライング気味なキスに、ダメ出しされたもんだと思ってたんだけど。

「……」

違うんですよね、と確かめたい相手は、恥ずかしそうに赤い顔をして、自販機に縋りつくような体勢。

それが可愛くて可愛くて、言葉がなくなって。ただ、見つめる。――見つめ返されて、動けない。

だってそれは、完全犯罪に近い、上目遣い。

「……ちゃんと、しろよぅ」

拗ねて尖る唇に、三度、時が止まる。



肩にふれて。身体を傾けて。

今度は、『ちゃんとした』キスをした。

後のリアクションも、心臓の鼓動も、この際あんまり考えなくっていいや。

矢口さんの、唇の感触。それだけを意識の中に刻み込んで、消えないようにと、そう願った。