Desire



「矢口さん、何か怒ってるんですか?」





ぴったり5秒の間を置いて、ふいっと逸らされる視線。

後には沈黙が続くだけで、そんな態度が何よりの答えだった。

拗ねた表情の口元を凝視したまま、言葉を探す。

「……言ってくれないと分からないじゃないですか」

不快そうに眉を顰めて、矢口さんは身を翻す。

「矢口さんっ」

ドアに向かおうとする相手を、咄嗟にバッグを掴んで引き留める。

がくん、と衝撃を受けて倒れ込んできた身体を、柔らかく抱き寄せた。

「離して」

怖いほどに落ち着いた声が、胸の奥の温度を下げる。

情けないんだけど腕が竦んでしまって、そのせいで逆に解けなかった。



どうしよう。どうしたら、いいんだろう。

バカみたいに考え込んでる自分がもどかしい。

誰かの怒りに直面することに、こんなにも免疫が無い。

別に優等生として生きてきた訳じゃないけど、過去の人間関係は極めて円満だったのだと思う。

相手が怒っている理由が分からない。とりあえず謝る、という行為はこの場合正しいのかどうか。

怒っている理由を答えてもらえない。これ以上追求する、という選択は事態を悪化させはしないか。

「……よっすぃー。人が見たら、変に思うよ」

不意に、いつもの諭すような口調で矢口さんが呟いた。

小さく身を捩って、こっちを振り向いて仰ぎ見る。

仔犬のような瞳の色に、瞬間、息が詰まった。

「平気です」

抱きしめている腕が、自然と強さを増す。離さない、という意思表示。

誰も入って来ない。見られても構わない。二つの意味で。

一緒に帰りたくて、わざわざ楽屋でこうして時間調整したんだから。



仕事の合間、隙をついて抱きしめるのが得意になった。

人目を忍んでキスをするのが癖になった。

――慣れた、と言ったら叱られそうだ。きっと何処かで、その気安さに甘えてしまった自分がいる。

些細な会話で矢口さんの機嫌を損ねて、その原因も対処法も分からないのに。

「こんな気持ちのままで帰るなんて、出来ないです」

憮然とした子供のような声で、そんな台詞。情けない。誰に言われるでもなく、そう思う。

「分かったから、一回離して。この体勢って、かなりズルイよ」

そっけなく押しやられるままに、腕を解く。それだけの動作で、寂しくて死にそうになる。

一歩下がった矢口さんが、軽く俯いた後に、気丈な視線で上向いた。

「……あのね。矢口、怒ってるよ。なんでって思うかもしれないけどさ、それ説明するのがイヤなぐらい、今はそういう気分」

ぴしゃり。容赦なく突きつけられた感情に、ぐっと手を握って堪えた。

けれども、言葉は紡げなくて。見つめ返した矢口さんの表情は、苛立ちを隠さない。

「ごめん。今日、最初っから機嫌悪かったっていうのもあるの、朝イチの仕事で色々あって。……それで」

ふっと瞳の色が曇る。口元が歪む。伏せた視線が、怒りよりも切なさを滲ませる。

些細な変化も見逃したくなくて、黙って次の言葉を待った。

「だから、いつもなら平気だったかもしれないんだけど、今日は引っ掛かっちゃった。すごいダメだった。……ごめん、訳分かんないね」

「……いいえ」

微妙な沈黙に、また逃げられるんじゃないかと不安で。なのに、その腕を掴めない。

一歩ぶんの空間を保ったまま、懸命に記憶を辿る。

「何がダメだったのか……それ言うのも嫌だったら仕方ないですけど、でも、ちゃんと言ってほしいです」

さっきよりも、だいぶマシな声が出せた。毅然と背筋を伸ばして、正面から向き合う。

矢口さんは、今度はどこか困ったような、悲しい顔をした。

「……だからさ、いつもだったら平気だったんだよ、たぶん。よっすぃーが……」

声が、不意に、弱く細く途切れる。くぅ、と喉を鳴らす音が聞こえて、矢口さんはたちまち泣き出した。

言葉をなくすあたしの目の前で、涙はぽろぽろと零れて、後から後から頬を滑り落ちていく。

「なんで、あんなこと言うんだよぉ……裕ちゃんがいなくて寂しいですかって、寂しいよ、決まってるじゃん!」

叩き付けるように絞り出された声が、耳から心を貫いた。



二人っきりになって、帰り際に交わした会話。

明日のスケジュールの話をして、ハロモニの収録に中澤さんは欠席だって分かって。

『えー、つまんなーい』

って矢口さんは不満そうに唇を尖らせた。相変わらず可愛かったのを覚えている。

その後に、何気なく言ってしまった言葉だった、と思う。

『やっぱり、中澤さんがいないと寂しいですか?』

深い意味は、たぶん無かった。言葉通りの意味で。

だから――あぁ、確かにその会話の後から、矢口さんの反応が重くなってた――まさか傷つけてしまうなんて思わなかった。



「……しょうがないじゃん、裕ちゃんがいないと寂しいよ……。いると、すごい嬉しいし……未だに変わらないよ、そんなの」

肩を震わせて、矢口さんは悔しそうにしゃくりあげる。

「でもね、それでも矢口、頑張ってるのにさぁ。……『やっぱり』とか言わないでよ。そんな言い方されたくない……」

「――ごめんなさい」

考える間もなく、言葉が口を滑り出た。自分を責める気持ちに苛まれて、目眩がする。

俯いたあたしの腕にそっと矢口さんの手がふれて、違うんだよぅ、と悲しそうな声がした。

「そうじゃなくって。よっすぃーの言ったこともね、ムカツいたんだけど、でも……それだけじゃないんだ」

ふぅ、とそこで一つ息を付いて、矢口さんが顔を上げる。濡れた瞳が、きらきらして見えた。

袖の辺りをきゅっと捕まれる、その仕草に心が惑う。

「……よっすぃーには、分からないんだよね」

穏やかな口調が、どうしようもなく寂しい台詞を告げる。

決めつけられるような言い方は不本意なのに、反論の一つも出来ない。

ね、と同意を求めるみたいに矢口さんは小首を傾げるけれど、その表情は普段見たことがないほど大人びていた。

「多分さ、当たり前なんだよ。矢口と裕ちゃんのこととか、矢口の気持ちなんか、よっすぃーが分かんなくったって仕方ないじゃんね」

「でも。……嫌ですよ、そんなの」

だって、矢口さんが泣くのに。それは絶対に良くない。間違ってる。

そんな抗議の視線さえ柔らかく受け止められて――何を言っても敵わない予感がした。

矢口さんの中で、きっともう結論は出ていて。それは、今のあたしよりも一段高いところにある。

「そういうふうに言ってくれるの、すごい嬉しい」

ふふ、と綻ぶ唇に、追いつけない自分が少しだけ報われた気がする。

「でもね、どうしても無理なことってあるじゃん。たとえばさ……じゃあ、彩っぺのこととか。知らないよね、あんまし」

矢口さんが言おうとしてるところに導かれるまま、あたしは頷く。

「今でも、彩っぺがいなくて寂しいことあるんだ。あと、明日香とか紗耶香がいたらいいのにって思うこともあるのね」

たちまち、照れたような、子供みたいな表情で矢口さんがはにかむ。ふっと気持ちが和むのは、もう、この人の才能だと思う。

「それって、よっすぃーに分かれって言う方が無理だし。だから、いいの。仕方ない――って、思うことにした」

ちょっと寂しいんだけどね、って早口で続いた台詞の方が、よっぽど本当のような気がするのに。

けれどもあたしは、それを言わない。

今しなきゃいけないのは、矢口さんが言ってくれた言葉を理解することだと思ったから。

「……仕方ないこと、なんですか」

「そう。でね、だけど、それが寂しいっていうか、分かってくれなくてムカツくっていうのは、また別だけどね」

ふわり、と腕に纏わりつくように抱きつきながら、矢口さんは尚も難解な言葉を紡ぐ。

あたしの思考は、追いつこうと必死になってる。頑張れ自分。だって、矢口さんとの距離は、さっきよりずっと縮まってる。

「……どうしようもないのに、分かってほしいって思っちゃうのは」



ゆっくりと、矢口さんがあたしの腕に身を寄せて、顔を埋める。

金色の髪の間から覗く耳が、ほんのり赤く染まっていた。

「よっすぃーのこと、好きだから」

消え入りそうな声に、息を飲む。いきなり訪れた沈黙に、自分の心臓の音が聞こえるんじゃないかと思った。

それぐらい、その『好き』は、今まで言われたどんな『好き』とも違う気がして。

「だから……さっきみたいに、なんで分かってくれないの!って怒りたくなったりしちゃうんだよ、やっぱり」

そんな、なんて言うか、困っちゃうような言い分を。矢口さんだって自覚してるんだろう、はっきりワガママな理屈を。

「それだったら、全然平気です」

自分でも呆れるほど、無抵抗に受け入れる。すんなりと。雑作もなく。

その自然な流れで、矢口さんを包み込むように抱きしめた。

もう前傾姿勢で、全身で腕の中に閉じ込めたい感じ。

「……よっすぃーさぁ、そんなに優しくっていいの?ほんとに……」

――でも、ありがと。

どこか素直になりきらない矢口さんの声が、胸元から直接浸透するようで心地よかった。



「さっきの、やっぱり、よっすぃーが悪いんだ」

くん、と背中に回した手で上着を引っ張りながら、矢口さんが呟く。

分かってます、ごめんなさい、って。鷹揚に謝ろうとしたのに、それより先に早口で続く言葉が。

「矢口を、こんなに好きにさせるから……とか言っちゃって……あー!うわぁ!」

……言われた自分も真っ赤になったけど、言った本人の方が絶対動揺してるし。

やーだー!ってじたじた暴れ出す身体を、肩と腰をホールドして離さない。

これだけは心得てるから、ちょっと余裕で、力の加減してみたりして。



「……矢口のこと、好き?」

「もう、大好きです」

ちらりと伺う上目遣いに、躊躇なく答える。

「じゃあ、もっと、分かるようになったらいいね」

「頑張ります。昔のビデオとか見て勉強しますよ、モーニング入ったばっかの頃の矢口さんとか」

「や、それはいい、見なくていいっ!やーめーてーっ」

腕の中で、しおしおと崩れそうになる身体を支えながら、あたしはやっと屈託なく笑った。

なんだろう、上手く言えないけど、確かに何か手応えみたいなものを感じる。見えない壁を突破していく感覚。

この先、きっとまた壁にぶつかることがあっても、自分は絶対に逃げないで立ち向かって行ける。

伊達に長い訳じゃない腕を、矢口さんに向かって精一杯伸ばし続ける。

指先がどんなに空を掻いても諦めない。格好悪くても、情けなくても。

そうして、届いたなら引き寄せて、何度でも抱きしめて。



誰より、近づく。