Spring rain



「愛情だけで子供が出来るならあたしがパパなのに」と軽口を叩いたら、「奈々さんはあっちこっちに子供作りそうだよね」と一蹴された。






最近、美奈子のことをよく思い出す。

昔より空いた時間が増えたせいなのか、雨続きの季節のせいなのかは分からない。

けれども、それはとても不思議な感覚だった。

『思い出す』というのは、記憶として一度しまい込んだものを再び取り出してくることなのだろうと考えていた。漠然と。

だとしたら、美奈子のことが自分の中ですっかり片付いていることになる。そんな筈がない。それだけは断言できる自分の弱さを知っている。

すぐ手元に残しておいたつもりの欠片を、なのに、ひどく遠いもののように見ている。実際問題、今のあたしと美奈子の間にはどれだけの距離が隔てられているのだろう?



あの日、美奈子は黒のレザーのジャケットを着ていた。その滑らかな袖を掴んで、懇願する自分の姿。

嫌だ、とだけ辛うじて呟いた。何度でも繰り返したいのに、唇が震えて叶わない。紡げない言葉。許されないし、誰のためにもならない。

けれども手放せない腕を、振り解くこともせず美奈子は微笑う。穏やかな表情がまるで別次元のものに思えた。

「……捨てないで」

純粋な畏怖に急かされて口走る。こんなことを他人に向かって言う自分なんて想像もしていなかった。過剰な演出も計算も効かない、真摯な告白。

「奈々さんらしくない」

美奈子は尚も笑う。あたしは笑えない。らしくないのは百も承知で、それでも縋らずにいられない。

「美奈子だから言ってるんだよ」

怖い。皮膚の上をぴりぴりと伝う危機感。あたしにとって、美奈子を失うことは身体の一部を損なうのと同じ。

「美奈子じゃなきゃ言わない」

時間が必要なのは分かる。物理的なこと全て、頭ではとっくに理解している。

「ねぇ、嫌だよ……」

感覚だけが、この手を離せない。



「あたしが奈々さんを捨てるわけがないでしょう」

静かな、きっぱりとした口調。泣きたいぐらい美奈子らしい。これまで、どれだけの場面で説き伏せられてきたか知れない、確信に満ちた声色。

既に苦笑している視線を受け止める。美奈子がそう言うのなら、あたしはそれを信じればいい。

「もしも、そういうことになったとして」

歌うように言葉を続ける唇の、控えめな口紅の色を今更愛しく思う。

「そのときは、奈々さんがあたしを捨てるんだよ」



否定しなければ、と反射的に感じた分だけ動けなかった。心を刺した衝撃が身体の内側で反響する。

全てを見透かす美奈子の瞳に、表情を無くした沢詩奈々子が映る。

「あたしも、奈々さんにしか言わないこと言おうかな」

綺麗な鏡の持ち主は、不意にライトな明るさで微笑んだ。身構えることも忘れさせるほどの間隙をついて。

「奈々さんじゃなきゃ言わないからね」

両腕をこちらに伸ばして――袖を掴んでいた指がようやく外れた――無邪気な仕草で首筋に抱き着く。

大胆な抱擁に思わず目を閉じたら、引き寄せられるままに頬を掠めて耳元に近づく吐息。

美奈子の体温を感じた。触れ合っている部分から伝う熱よりも、もっと深く直接揺り返される、記憶に根付いた温度。慕わしさに身を委ねる。

安心しきった声で、美奈子が呟いた。









「ごめん」









――謝っては、いけなかった。

美奈子の行動は確かに予定外で、周囲は一切合財覆されて、けれども。

それは過ちでも裏切りでも無かったから。そうでなければならなかったから。

美奈子は、謝ってはいけなかった。なのに――。



外は、雨。

窓辺に立ち尽くすのに飽いて、座り込んで壁に凭れる。

無機質な冷たさがやがて中和されていくのを背中で感じる。大抵のことはそうやって馴染んでゆく。

玲奈と亜紀ちゃんはストレッチに余念が無い。りっちゃんは新調したシューズが合わないらしく、裸足で地団駄を踏んで盛大に悔しがっている。

あたしは美奈子を待っている。

待ち続けている、と言えば嘘になるかもしれない。無理やりに寂しさを奮い立たせることは、とっくの昔に止めてしまった。

ただ、こんな日常に訪れる一瞬。

レッスン用のスタジオで、入り口を眺めて夢を見る。

あの扉が開いて現れるのが美奈子だったらいいのに。

屈託のない笑顔、淑やかな髪と仕草、誰よりも強い歌声と心。

今も指先で繋ぎとめたい何もかも、この場所で、もう一度会いたくて。