Home, sweet home



ミニモニ。の魔法が解けてしまった。

今にして思えば、それは最初っから分かりきったことだったのだけど。

だってヤグチはもうハタチだし、いつまでもじゃんけんぴょんとか歌ってていいのかなぁって悩んだこともあったんだ。

それでも。

悲しい気持ちも涙も抑えきれない。気を抜いたそばからぽろぽろと零れてく。帰りのタクシーの中、渡された寄せ書きを抱いて、また泣いた。

もう、あの衣装を着ることもない。オレンジ色のチェックのミニスカートにレッグウォーマー。この歳でそれが似合うのはヤグチぐらいだなんて、不本意な褒められ方をして。

夢行きのバスにも乗れなくなっちゃったな。――歌うことのなくなる歌がある。それがいちばん、寂しい。

『ミニモニ。リーダーやぐっちゃん』じゃなくなったヤグチは、ただの145センチのちっぽけな……って、あぁぁ。なんか果てしなく落ち込んできた。ヤバいヤバい。

こんなときは。ばっ、と顔を上げて、携帯を取り出す。

こんなときは。とっとと家に帰って、お母さんの超美味しいゴハンを食べるのがいいんだ。妹と、最近どうよ?みたいな他愛ない話をして、混ざりたがるお父さんを邪険にして。

けれども、指先は一つのアドレスを開いて、軽快にメールを送る。カラ元気を取り繕う必要もない、単純なメッセージ。

返事を受け取ってから、運転手さんに家とは別方向の行き先を告げた。

家族もいいんだけどね。家族の愛情は無償で絶対的で安心なんだけどね。それはきっと、ヤグチが145センチだろうが180センチだろうが変わらないものだから。

今夜は、145センチのヤグチを無条件で愛してほしいんだ。こっぱずかしくて厚かましくて幼気な、そんな願望をぶつけられる場所。

今現在の、それ以上でもそれ以下でもないヤグチを、アホみたいに全面肯定してくれる人。

こんなときは。――ヤグチの裕子に会いに行く。



『なんや、もぉ着いたん?早かったなぁ』って。ほらね。インターホン越しに聞こえる声は、めちゃめちゃ上機嫌。

ヤグチが会いに来たの、嬉しいでしょ?ぐらいの気持ち。身も心も委ねるから、受け入れて甘やかしてよ。

人間、疲れたときには甘いものがいいって言うのはホントかもしれない、と微妙に場違いなことを考えながら、ドアが開くのを逸る気持ちで待ってた。

……待ってたんだ、けど、さ。

ドアは開いたよ。あぁ、開いたさ。裕子も立ってたさ。相変わらず薄暗い玄関に、くつろいだ格好して。

「矢口ー♪いらっしゃーい♪いやーん、矢口が来てくれるなんて嬉しいー」

期待通りのリアクションもくれて、だからとりあえず中に入ってドアは閉めたのだけど。

「どしたん?上がらへんの?」

怪訝な眼差しで尋ねられても、足はそこから一歩も動かない。

だって、違う。前に来たときと、いつもこんなふうに緊急避難的に来てるときと、違う。

何がって、何がって、ヤグチの目の前の、そいつがっ!



「ほら、ハナちゃーん♪お姉ちゃん来たでー♪ご挨拶はー?」

ヤグチを迎え入れた、その声のトーンのまま。胸元に抱いたそいつに、裕ちゃんは蕩けそうな視線を向ける。

「やぁっ、もう、もう、もう、可愛いっ♪可愛いやろ?うちのハナちゃん」

ひょい、と見せびらかされても、ヤグチは固まったまま見据えるだけ。ちょうど視線の高さが同じで、濡れ濡れとした瞳がこちらを凝視していた。

至近距離に、乳臭いイキモノ。犬のくせに豹柄の服なんか着ちゃって(それは本意じゃないんだろうけど)、この空間で我が物顔してる(ように見える)。

えーと。ねぇほら、裕子。裕ちゃん。ヤグチだよ?好きでしょ?大好物でしょアナタ。なのになんで、いつもみたくがばーって襲い掛かってこないのさ。

したらヤグチが『何すんだよー』って暴れるからさ。それでも強引に抱きかかえて引きずってってよ。そんなんしてるうちに笑顔になるからさ。

ねぇ、裕子。

「なんやぁ、ハナちゃん、ここ寒い?寒いなぁ。中、入りましょうねー」



「……帰る」



自分でもびっくりするほど不機嫌な呟きに、身を翻しかけた裕ちゃんの動作がぴたっと止まった。

「は?」

「や。あの。やっぱ、帰る。ごめんね裕ちゃん」

慌てて普段の調子を演じる。って、普段の調子じゃなくなってる理由がヤグチにもよく分かんないよ。何がこんなに気に入らないって言うんだろ。

「何、なんやの矢口。どぉしたん?いきなり来るっちゅーたかと思ったら帰るって――」

裕ちゃんの声は普通なのに。ダメだ。なんでだろ、心が急転直下のジェットコースターに乗ってるみたい。拗ねたくてムカついて悲しくて、そういう自分が嫌で。

「ごめん、ほんとごめん!後でメールする、かも、だけど。じゃあね」

泣きそうになりながら、今閉めたばかりのドアのノブに手をかける。と、その肩に裕ちゃんの手。

――なんでそうやって、片手で引き止めるだけなのさ!いつもなら両手で抱きしめて離さないくせに!

触れられた感覚で、胸の中にだけ思いが溢れた。認めたくないこと、分かっちゃった。……ヤグチ、ハナちゃんに妬いてる。

ばっかみたい。自分が情けなくて、裕ちゃんに背中を向けたまま動けない。勝手に甘える気満々になって、100%で応えてくれないからって八つ当たり。しかも相手、犬。

どうしよう、とりあえず逃げ出そうか、なんとか気持ちを立て直して、それで――。ぐるぐると次の一歩を考えていたら、後ろで半ばキレ気味の声が上がった。

「あー、もう!ちょっと!」

びくん、と条件反射で振り向くと、玄関の段差を下りてきた裕ちゃんがすぐそばにいた。



「はい。ほら、抱っこ」

有無を言わせぬ仕草で、胸元にハナちゃんを押し付けられる。慌てて両手で支えて、やわやわと頼りない感触が腕の中に納まった。

たちまち視界が遮られる。裕ちゃんのシャツの淡いグレー。香水の匂い。両腕で、ぎゅっと――望んでいたように抱きしめられているのだと、それで分かった。

「あ〜♪ハナちゃんが2匹♪」

やっぱりアホだ、この人。アホだけど。悔しいなぁ。今度はなんだか、温かくて安心して嬉しくて泣きそう。

「……ハナちゃんじゃないよ」

ささやかな抵抗で呟いても、もう逃げ出せない。145センチの身体に、じわじわと注ぎ込まれて満ちる愛情。

閉じ込められた形になったハナちゃんが、窮屈そうに身動ぐ。とくとく、と薄い皮膚越しに伝う心音。ミルクの匂いのイキモノ。

うん。ちょっとだけ――うちのクッキーの次ぐらいには可愛いかもしれないなぁ、この子。

ヤグチはゆっくりと目を閉じて、いつしか呑気に、そんなこと思ってた。