Autumn has come



別れ際に呼び止められた気がして振り向いた。

どうやらそれは空耳ではないらしく、じゃあまた明日、と歩いて行った筈の保田さんが何故だかこちらを向いている。

声は、道を行き交う車の音に遮られて聞こえない。ただ、動いた唇の形に、自分の名前が見てとれた。

呼ばれてる。きっと『石川ぁ』って、仕事以外の時間特有の、ちょっと気の抜けた口調で。

「はい?」

耳元に手を当てて首を傾げてみせたら、保田さんは少し困った顔をした。

「……今日さぁ」

さっきよりもはっきり動く唇を見つめる。軽く頷いて続きを待つ、数秒の間。

「うちに、泊りに来てよ」

一文字の聞き間違いようもなく、今度はしっかりと声が届いた。

透明な夜の空気越し、保田さんは所在なさげに立ち尽くして、あたしの反応を待っている。



タクシーを降りてから部屋に入るまで、ずっと手を繋いでいた。

きちんと絡んだ指と指。エレベーターの中で何気なく視線を落としたら、保田さんがぽつりと呟いた。

「石川の手、好きだよ」

かあっと頬に血が上るのが分かる。不覚にも。

「いきなり何言うんですか、もぉ」

気を取り直して切り返した言葉は、狭い空間で妙に響いて居たたまれなくなる。

エレベーターが目的の階に着くまでの時間を、やけに長く感じた。



……なんで?

辻加護に指摘された口癖じゃないけど、頭の中で疑問符が灯りっぱなし。

だって。そんなの来る前から分かってたけど、特別なことなんてひとつも無いんだ。

帰ったら、お風呂入って歯を磨いて寝るだけ。そんな単なる日常習慣に、あたしが付き合わされる理由は見当たらない。

そう思うのに。思いつつ。着々とそれに倣って、寝る準備万端のあたしがいる。……なんで?

「石川、髪の毛乾いた?」

「あ、はい」

温風が名残惜しかったけれど、ドライヤーのスイッチを切った。今夜はずいぶん冷え込むような気がする。

おかげで、と言ったら変だけど、寝る格好が普通に長袖のパジャマだったことに少なからず安心してたりして。

「んじゃ、寝るか」

保田さんが、のんびりとした動作でベッドに入る。相変わらず何の変哲もなく。

あたしは一応携帯の目覚ましをセットしてから、おとなしく隣に潜り込んだ。

ごく自然に投げ出された腕に、ちょこんと頭を乗せる。他の選択肢は無いように思えた。……なんで?

そして、腕枕を実感するより先に、保田さんの腕があたしの身体を躊躇なく抱きしめる。



なんでなんでなんでなんでなんで?ぐるぐる巡る疑問符の数は最高潮。

とりあえず、これじゃ寝れませんよーとか何とか言わないと。それ強ち嘘じゃないし。

「保田さん、あの……っ」

そんなあたしの胸中も知らず、眠たげな声は呑気に告げる。

「あんた今日抱き枕」



「……」



言われてみれば。この抱かれ方――というより抱えられ方――は、まさに。

って!あーっ!今夜のいろんなことが、一気に連鎖して解けたような気がするんだけど!

「ちょっと……なんですかそれ!石川って何なんですかっ」

「だからー。抱き枕」

いいじゃん別に、なんて。既に寝る体勢に入っている保田さんは、とりつく島もない。

「よくないです!石川を抱き枕だなんて、そんなの……いくらすると思ってるんですかぁ!」

じたじたと身動ぎしながらの抗議は大真面目だったのに、保田さんは伏せるように笑い出した。

「いくらってあんた。値段の問題かよ」

そうじゃないです、そうじゃないんですー。必死に言葉を紡ぐほど、何を訴えたいのか分からなくなってくる。

やがて保田さんが笑い疲れて落ち着く頃、あたしもちょうど、もう寝ようと思えるぐらいに拗ねていた。



結局、抱き枕状態を容認したまま目を閉じる。……だから、なんで?

分かるようでやっぱり分からない、今夜のこと。発祥じゃなく経過。流されつつ、それでもこうして寝付こうとしてる自分。

少なくとも、夕食を奢ってもらったとか、調子に乗ってデザートまで頼んでしかもそれが美味しかったとか、そういうことじゃない。

……そういうことじゃないと思いたいじゃない。あたしとしては。ねぇ。

誰にともつかない言い訳をしていたら、不意に保田さんの声が沈黙を破った。

「石川」

返事をする代わりに目を開ける。まっすぐ見つめられているのを予測した上で。

その通りに向けられていた視線は、さっきとは打って変わって真剣。なんだかちょっとだけ、ずるいなぁと思う。

「あのさ」

しんみりと、何処か思いつめたような声。子供が、悪戯を白状するときみたいな。

「こうやって、あんたと遊んだりしてるのって、やっぱ吉澤には内緒にしといた方がいいの?」



「え、別に大丈夫」

疑問符に囚われる前に答えてしまおうと思った。否定形で、出来るだけなんでもなく。

それでも、あっという間に気持ちに追いつかれる。……なんで?

悲しいとも悔しいともつかない感情が、小さく、けれども確かに芽生える。表情に出さないように、微笑む。

内緒にしなくても大丈夫なのは、たぶん嘘じゃない。よっすぃーのことなら大丈夫。でも、それは保田さんが案じている意味とは違う。

今夜のことを耳にしても、よっすぃーは1ミリも妬いたりしない。絶対に。そういう子だから。そういう、羨ましいような性格だから。

あたしたちの――あたしとよっすぃーの、或いはあたしと保田さんの――関係がどうであれ、よっすぃーはそんなこと気にも留めない。

「……どっちかって言うと、あいぼんには内緒にしておきたいかな。バレたらきっと大変」

言葉は、自分の思考も置いてきぼりにして、精一杯空気を取り繕う。

気づいているのかいないのか、保田さんは苦く笑う。

「あたしは加護と同レベルか」

溜息のように落ちて、耳に残る低い声。





微かな寝息が聞こえ始めて、保田さんの腕が少しずつ解けてゆく。

あたしの方でも、緩く抱かれている感覚が途切れがちになる。

抱き枕――。今の、あたし。保田さんの腕。保田さんの部屋。

抱き枕が必要なんだと思う。この人に。この場所に。

プレゼントしようかな。そういえば、いつだったかの番組で、安倍さんがそんなこと言ってたっけ。あの話、どうなったんだろう。

安倍さんのことだから、言った端から忘れてる気もするけど。……うーん。

いいや。今年の保田さんの誕生日。決めた。

でも、それってなんか冷たいかな。今日みたいなこと、もうやめてくださいねって言ってるみたいで。

つくづく、中途半端だと思う。抱き枕をプレゼントすることも、抱き枕に立候補することも出来ない。中途半端な関係。

こんな関係は……えーと。なんだろう。こんな関係は。

やっぱり、あいぼんには内緒にしておかなきゃいけない。……うん。それだ。



寂しいんですか?となら、冗談口で聞けるかもしれないけれど。

何が寂しいんですか?とは、きっととても、聞けない。



週末から、娘。は秋のコンサートツアーが始まる。